ヤブコウジの赤い実。
常緑の葉の下に可愛くぶら下がっている。
冬の庭に鮮やか彩りを与えてくれている。
あの実を見上げるほどの小人が居たら何と言って表現するのだろうか?
そんな自分を空想する。
この木の仲間には
一両(棘があり蟻通の別名がある)
百両(カラタチバナ)
千両
万両
がある。
昔、母から聞いたことがある。
お正月飾りにと植えた千両の庭木。
毎年のように赤く綺麗な実をつける木なのだが、大晦日が近づいて新年を迎える準備のために生花として使おうと思い庭に出て愕然としたらしい。
それは千両の実の数が少なくなっていて、とても生花として使えない状態だったことが何年も続いたと。
それから数年の間、母は注意深く観察をしていたらヒヨドリが周囲の林に食べれる木の実が無くなってくると庭に来て千両の実を啄みにくることが分かったらしい。
たわわに実がついた万両ではなく千両の実ばかりを食べているということだった。
さらに話は続き、万両の実は一番最後に食べにやってきているようでヒヨドリにとっても美味しくないらしい。
不味いけど食べるものがないから仕方なく万両の実を食べているようだと。
そこまで聞いて私はお腹を抱えて笑ってしまった。
何故なら私は野鳥は木の実ならどれも美味しく感じて食べているだろうと思い込んでいて、ヒヨドリはそれなりにグルメだったのかと感心してしまったと同時に不味そうに食べる姿を想像してしまったからだ。
余談だけど、小鳥を飼っていると好きなシードとあまり好きではないシードでは食べ方が全く違うことがよく分かる。
仕方なく食べている感を小さな体から強く発しているのを感じるからだ。
ヒヨドリにとって実家の庭の千両の実はご馳走だったのだろう。
一方で我が家のヤブコウジの実をヒヨドリが食べている姿を二度ほど見たことがある。
冒頭のヤブコウジの赤い実はもしかしたらあまり美味しくないのかもしれない。
だからこそあの赤い実を見上げる小人の目線を想像しても喜ぶ感じが思い浮かばないのもそのせいなのかもしれない。
美味しそうに見えてもねぇ、実はあの果実はあまり美味しくないんだよねぇ。
小人の自分はそう呟いているかもしれない。